第8章フォローすべき手がかり
アンナが車を降りたのは、病院の門をくぐり抜けて車が勢いよく走り去った直後だった。彼女はそびえ立つ建物を見上げる。スターリング国際医療センター。唇の端に、かすかな笑みが浮かんだ。
中へ入ろうとした、そのとき。背後から切羽詰まった叫び声が飛んできた。
「逃げろ!みんな逃げろ!」
取り乱した様子の男が駆け抜けていく。だが足元がもつれ、激しく地面に倒れ込んだ。抱えていた子どもも一緒に投げ出される。
「大丈夫ですか?」アンナは助け起こそうと近づいたが、男はそれどころではないとばかりに子どもへ身を投げ出した。
「ベン!ベン!」恐怖にかすれた声で叫ぶ。
ベンと呼ばれた少年は死人のように青白く、全身が激しくけいれんしていた。
男が少年を抱え上げようとした瞬間、アンナは素早く制した。「動かさないで」
アンナはバッグに手を入れ、銀色の針を取り出す。
「押さえて!」きっぱり命じた。
男ははっと我に返り、息子の手をつかんで地面にしっかりと押さえつけた。
アンナの針が素早く走る。少年の頭部のツボを正確に捉え、次々と刺していく。数本入れたところで、子どものけいれんはぴたりと止まった。
その一部始終を、二階の窓からウィリアムが見下ろしていたことを、アンナは知らない。目を細め、アンナの手際を追う。――やはり、本当に医術を持っているのか。
「スターリング様、準備が整いました。こちらへどうぞ」背後から看護師の声がかかる。
ウィリアムは窓から身を引き、車椅子を静かに方向転換させ、その場を離れた。
階下では、ベンが意識を取り戻していた。父親は感謝のあまりアンナに深く頭を下げる。
アンナは手で制し、「中へ連れて行って検査を受けて。頭に何かあるかもしれない」と告げた。
その言葉に男の顔色が変わる。「どんな問題なんです?」
「断定はできないわ。医師に診てもらって。慌てないで」アンナは落ち着かせるように言った。
「……わかりました」男は涙をこらえながら息子を見下ろす。「ベン、すぐに先生に診てもらおうな」
「ありがとうございます、奥様」深い感謝を込めて言う。
アンナはうなずいた。男が去ったあと、見物人の中に見覚えのある顔を見つける。
「奥様、またお会いしましたね」
リチャードは一連の出来事を目撃しており、アンナをこの医療センターに迎え入れたいという決意をいっそう強めていた。
「トンプソン先生、どうしてこちらに?」アンナが尋ねる。
「通りかかったら、あなたがあの子を助けているのが見えましてね。邪魔をしたくなかったのです」彼は病院のほうへ手を向けた。「せっかくいらしたのなら、ご案内しましょうか?」
アンナの胸に小さな希望の火が灯る。まさか彼がこの医療センターの院長だったとは。これなら、あの女を探すのもやりやすいかもしれない。
「ぜひお願いします、トンプソン先生」
「どうぞ、こちらへ」リチャードは丁寧に応じた。
院内は人の出入りで慌ただしい。リチャードは歩きながら説明を始める。「当センターはブライトン・ハーバー最大規模で、医療スタッフは千人以上。専門性も国内外で一流と自負しています」
「先生は、ここの医師を全員ご存じなんですか?」アンナが聞く。
リチャードは誇らしげに答えた。「もちろんです」
「ここに、マリーゴールド・ウォルシュという産婦人科医はいますか?」
「マリーゴールド・ウォルシュ?」リチャードは少し考え、首を横に振った。「いいえ」
「本当に?」アンナは食い下がる。
「ここの医師は全員把握しています」自信をもって言い切る。「その名前の者は、確実にいません」
アンナの顔に失望が広がった。
マリーゴールドは何年ものあいだ、まるで跡形もなく消えたままだ。ようやく手がかりをつかんだと思ったのに、それもまた霧散してしまう。
眉間にしわを寄せたアンナを見て、リチャードが提案する。「もしかすると、お名前を勘違いされているのでは?」
勘違いだったのか?――アンナがその可能性を思い浮かべた瞬間、目の奥にぱっと光が差した。マリーゴールドが名前を変えていたとしたら?写真を探さなければ。
「君がうちに来てくれたら、探す時間ももっと取れる」リチャードが甘く誘った。「奥さま、医療センターで働くことを検討していただけませんか?」
「どうか、アンナと呼んでください」
「分かった、アンナ。私の申し出を受けてくれるかい?」
アンナはうなずいた。「受けます」
リチャードの顔が明るく弾んだ。「素晴らしい。君が加わってくれるのを楽しみにしているよ」
別れたあと、アンナは病院を出た。唸りを上げるエンジン音とともに、スポーツカーが轟音を響かせて目の前を駆け抜ける。
黒いレザージャケット姿のルーシーがサングラスを外し、「乗って!」と声を張った。
アンナが腰を落ち着けると、ルーシーは横目で見て尋ねた。「で、今はスターリング家に住んでるんだって?どういうこと?」
「話すと長いの」アンナは答えた。「一時的な都合よ。それより、マリーゴールドの写真、持ってる?」
「今はないけど、手に入る場所なら知ってる」
ルーシーがアクセルを踏み込む。車体がぐっと前へつんのめり、勢いよく走り出した。
やがて街を抜け、質素な郊外の住宅街へと入った。
ルーシーが小さな家が並ぶ一角を指さす。「あそこ。マリーゴールドの家族が住んでる」
アンナは眉をひそめた。「彼女、そこそこ稼いでたはずよね。どうして家族がこんなところに?」
ルーシーは肩をすくめた。「博打打ちの父親、怠け者の母親、寄生虫みたいな兄。どうにもならないでしょ」
二人は車を降り、ある家の前へ歩いた。ノックすると、年配の女が戸を開け、疑わしそうに二人を値踏みする。「どちらさま?」
「こんにちは。私たち、以前マリーゴールドと一緒に働いていた者です。少しお邪魔してもよろしいですか?」アンナは丁寧に言った。
身なりの良さに気づいたのか、女は脇へ退いた。「入んな」
ルーシーは散らかった庭を一瞥すると、財布から札束を取り出した。
「マリーゴールドは病院で優秀職員に選ばれたの。これはそのボーナス」
「まあ!」女の目がぎらりと光り、金に手を伸ばす。だがルーシーがその手首をさっと押さえた。
「優秀職員には写真の提出が必要なの。用意できる?」
「もちろん!すぐ持ってくるよ」女は慌ただしく奥へ引っ込み、ほどなく一枚の写真を手に戻ってきた。
「これでいいかい?」そう言ってルーシーに渡す。
アンナは写真を見つめた。三十代ほどの、どこか物憂げな表情の女。アンナは小さくうなずき、ルーシーが金を渡した。
「娘さん、最近はどこで働いてるの?」ルーシーが何気なく尋ねる。
女の顔が不機嫌に曇った。「あの恩知らずめ、どこへ逃げたんだか。三、四年も音沙汰なしだよ。兄貴はもう結婚してるのに、金だって送ってきやしない。見つけたら、ただじゃおかないからね!」
ふいに女はアンナとルーシーを見据えた。「あんたたち、同僚なら居場所知ってるんじゃないの?」
アンナは首を振った。「私たちは、以前同じ職場だっただけです」
車に戻ると、ルーシーは写真を持ち上げた。「なんでマリーゴールド、こんな何年も家に帰ってないの?」
「お金よ」アンナは答えた。それ以外、思いつかなかった。
ルーシーはうなずく。「金持ちになって、元の家族から逃げたい。――でも、そんな大金、誰が払えるのよ」
アンナとルーシーにはそれぞれの推測があったが、口にはしなかった。
少しの沈黙のあと、ルーシーが指先で写真をとん、と叩く。――どこにいようと、必ず見つけ出す。
別れたのち、アンナはスターリング邸へ戻った。中へ入るなり、居間にヴィクトリアが座っているのが目に入った。
ヴィクトリアが顔を上げる。「アンナ、どこに行ってたの?今朝、何も言わずに出ていくなんて、どういうつもり?」
